手を載せるための皿に注がれる透明な水

ここでは俺が王であり権力者だ

倦怠──満たしてくれる欲求を機械の音が

「それはAIがやってくれる」
「AIなら上手くできる」
「AIの方が良い」

人為の選択に含まれるなら…。

もし欲求が完備され得る、完備している状態での進歩を更なる期待する心意気があるのなら私の考えは間違っている。でももしそうではなくて、欲求が完備され得る状況にて永遠の進歩すなわち未来や将来が期待できない、のではなくて頭打ち、限界で期待が(文明社会に生きる人間にとって)できないとなればそれはどういうものになるのだろう? 暴かれた視界の先で広がる輝きではない白い悪魔のような天国は…

私は人々が倦怠に陥るのではないかと考える。それはその時代に適応しようとしなかろうと文明社会に生きる人間なら確実に訪れるものとして。反動も創造も欲求もなければ…いよいよ退屈は死を迎え入れる時だと思う。つまり、自殺への欲求が(根源に)あるとして人々は大量に死ぬだろうと。喜びの共有は無くなる(個人の部屋に移行するような)代わりに倦怠と抑鬱じみた感情の虜になる、それが人々の運命にある僕は思う。だから今後の展開には希望を抱かない。かと言って絶望も感じない。そして何も持てなくなり、退屈が現れる。観察する者も消える。それはまず批評家が諦観を持つ段階から始まるだろう。

人間が生きるよりも、早く死ぬ方がずっと早くなる、それは自殺の流行(ブーム)という形で起こるかもしれない。近年の死に対する関心は無くなりつつある。と言うのはYouTubeで調べたら簡単に死亡事故を聞けたり自殺報道を見ることができるからだ。かと言ってそれが無意識に死を軽くさせているとはとても思えない。なら他に関係があるとして私は人間という抽象の過程、思考、思索、思慮、といった考える事により継続する生命の実感が、タイパや最近の効率思考(コスパ思考)によって消えているのではないかと思う。それについて色々な人が批判するような事を言うものの、それはまったく的外れな批判なように感じる。見通したわけでもないしこれは過眠して起きた後に書いたものだから個人で熟考してくれ。

何故ならそうした批判の根本的にあるのは人間を人間性(私たちの時代で理解が可能な方法)で覆っているからだ。
私は人間を意志のない生物だと捉えている。よって私はそうなった経緯がネットの後先が見える情報によって、また過剰な情報や身の回りを取り巻く媒体の増加によって上部だけでも知る他なくなる、なぜなら同い年はそれほど博識な人間もいなければコミニュケーションさえ楽しければそれでいいのだから、という方法を取るのだろう。それに博識だろうと不透明な時代では夢を持つことも難しい。なら上部だけしか知れない、なぜなら深く知っても無意味だから。そしてわたしたちはこの時代に一種の歪みという形で苦しみながらも適応したのではないか。

そんな環境の中ならば、それでいて一般的な知性というのは殆ど物を考えることのできない夢の中の住民でしかないのでこれは不可逆な現状なのだと感じる。僕たちは資本主義の中で生きている。労働者という形で、希望も夢も抱けない真っ白い夢の中で。


なぜこうした文章を書いたのかは最近ふとyoutubeでゲンロンやAIに語っているのを見たからだ。タイパについて語っていた。実は言うと日本の哲学者や思想家に今まで興味を持ってこなかった。つまり現代思想に入る前で私は半ば足を洗った状態にいた。これは一年前からそんな具合で私が知る哲学者は1980年辺りで死んだ。それで昨日まで色々漁っては見ていたが誰一人として倦怠を語っていないようだった。

 

まあ僕もZ世代にぎりぎり入っているか曖昧な人間だからさ、正直なんでこんな事を言ってるんだとは思う。人はこれを読んで何を考えるのかなんてどうでもよくて、なら僕は人に絶望的な側面を見せるのが役目ならなんて酷えもんだろう。僕は大衆には期待なんてしてないしこれからも悪化する一途を辿るだろうから、はやく終わればなあと思うこともする。正直、僕は楽観的な人間ではない。むしろ虚無の傾向があるとは認めざるを得ない。人はこのような悲観には無関心が多いから、どうしようが構わない。つまり考えてみたり、やめたりしてもそれは自由なのです。けれど最近、1984グループを見つけたりして、やっぱりもうあとは繰り返す日々しかないんだろうと私も思う。つまり時代は生まれないわけだね。新時代というのは子供に与える唾液がついても汚れない玩具ではなく擬音語なのでしかないんだと。というのはこんなふうにウダウダ言ったところで意味がないんだと。所詮は夢の中ならば、現実が反映され来るのは目覚めてからなのだからね。僕自身、悲観的な文章はあまり書きたくない。でもそれは一種の逃避でしかない。気が重くなるような、かといってなんとかすれば軽くなるようなものでもない。僕はそんな曖昧な輪郭で生きている。破綻したような、破綻していないような、破滅するような、破滅していないような…

実際僕は最近だと目的を見失っている。何がしたいとか、何をしようとしていたかとか。全てが解決済み、未解決問題となっているようで、途中で挫折する思索が続いてしまっている。僕はそうなんだ。ただ僕はそうなんだ、という過程だけが何か明晰なものを出すこともなく不気味な現状を無理やりあたかも親から握らされる冷たいコイン、温かくなって忘れるまで…それを繰り返していた。

怠惰な雑記

殆どが適当な文章たち。その静かな空間で散らばった真水の中を進む読者の目ときたら! かれこれ書いてきた記事とは距離を置い…その隔たりに取り巻いた状態が緊張を縛り付ける。

 

鯉の適応能力にしたがって私たちの無知で浅はかな改善の不可能な、この知能とやらと、どう踊ればよいのでしょう。広場で集まる愚衆と、夜が来ると合図を見せるハンドサイン。ずっとホテルで見ていた景色、これからのフーバー村で生きる術を教えてくれる、無闇の中を無邪気に。言葉だけが理解できる、けど行動を理解するのはとても難しい。まるで自分は生きていないと思うし、まるで自分は生かされていると感じるに至るまで。反感とする怒りは水に浸された鉄の匂い、穢れもない仕掛け。花火が散るだけの。自分が求めているもの、富でもない、地位でもない。私は今の水槽に満足ができない。今年で酒とタバコができる。長生きするつもりはないからやるだろう。でも僕は生きていると感じれなかった。いつまでも死んでいた。進歩も未来も信じない。自分達を苦しめて更なる無目的な成長に誘導される知能たちは…。破綻した社会の上でなぜ善とする生き方を求められるのか。さんざん崩して、切り刻んで、まだ未来があると、進歩があると信じ切る心意気を憐憫と思う。心と精神も拒絶する。無神論者だ。人間、血反吐の湖で泳いで死ぬ賢い蛆虫。歴史の中古品…

生垣から滴る雫、水たまりは街灯のように

安倍氏が昨日に死去してしまった。
悲しい。今まで親しんで見てきた人だから悲しい、というより喪失感に近い。それは人間としての悲しみではない。いわば概念としての、象徴の終焉を飾った彼の影は何処にも消えた今、一人の人間として身のある内、その夜は密かに息づいていた霜が月に輝き、川に流れる感動の全てが優しさで包み込まれますように。